「ノグチヒデヨ学園」のQ & A
Q.「ノグチヒデヨ学園」という名前は、なぜついたのですか?
ドクターノグチの活躍はアフリカ・アメリカだけでなく、エクアドル、ペルーなどの
中南米でも広く知られています。
全人類のために、自分の体すら顧みず渡航し、ウイルスの研究と人々の治療にあたっ
た彼の業績を称え、エクアドルには彼の名を冠した通りや、ペル−には記念病院、学
園などがあります。
ノグチ学園は元々、チャクラセロという地名をとって、チャクラセロ校として開校し
ましたが、ペルーゆかりの偉大な日本人の名前をつけたいと、約7年前、ノグチヒデ
ヨ学園と改名しました。
名付け親は、もう80歳近くになる、ペルー在住の日本人のおじいさんです。
文部省の顧問役や新聞記者をしていた、博識な方です。
今、学園では彼に習おうと、勤勉・誠実・愛を校訓としています。
Q.誰が、どんな理由で創ったのか?
まず、バックグラウンドとしての日系人の歴史を少し紹介したいと思います。
ペルーは今年で日本人移住103年目を迎えます。
最初は契約農民として渡来し、虐げられた環境の中、必死に農地を開拓し、ウサギ小
屋のようなところで、生活していたそうです。
そして、世界大戦の勃発。日本人はここでも辛い立場に追いやられ、北米に強制送還
されたり、日本語,日本の文化を禁じられたりしました。
終戦を迎えると、日本人達は商才をいかし、商売を始め,成功する人も出始め、多く
の人々が農村部から市街地へと,進出していきました。
今、日系人社会は、ペルー社会の中でも重要な位置をしめるようになっています。今
は大変なことになってるけれど、フジモリ大統領が90年に躍進したのも、そのあらわ
れでしょう。
日本人としてペルーに渡り、何とかペルーへ同化しようとする努力の中、現地の言葉
(スペイン語)を覚え、習慣にとけこみ、必死で荒地を耕してきた一世達。
やがて母語である日本語を話せない子供達もでてきました。
言葉を失うということは、自分達の文化、民族としての誇りをなくすことにも、つな
がります。
日本人としての美徳−正直や勤勉さ−それがあったからこそ、ペルーでも日本人は受
け入れられ、商売に成功するものもあらわれ、日系人社会は大きな発展を遂げまし
た。
だからこそ日系人たちは、自分達の言葉や文化、そして誇りを子供達に伝えていくた
めに、私設の日本人学校を各地で創設するようになりました。
ノグチ学園もそういったひとつです。今から約40年近く前に、今の校長先生の、旦
那さんが創設しました。そして、5年前に旦那さんが亡くなると、奥さんである現校
長先生が後を継ぎました。
3割くらいが日系人で、あとはペルーの子供達ですが、週3回の日本語の授業、その
他に日本文化の授業などを、行っています。
日系2世の校長先生は、日本語をある程度聞き取れますが、話すのは簡単な日本語く
らいです。
でも日本人としての誇りを持っています。
そして日本語、日本文化を継承していきたいという、強い願いとともに、ノグチ学園
を発展させてきました。
彼女は沖縄出身ですが、ノグチ学園という名前が縁になって、福島県との交流も続い
ています。4年前にはフォルクローレの祭典に生徒たちが招待され、川俣町を訪れ、
その際に猪苗代、会津なども訪れました。会津の「ドクターノグチを語り継ぐ会」と
も交流を結び、必要な援助は何かと問われた時、日本語教師の不足を訴え、それでは
ということで、1999年、第一人者として、前任の小山さんが派遣されました。
今、日系人社会で活躍する若い人は、ほとんど3世です。中には、ほとんど日本語を
話せない子達もいます。
おじいちゃん、おばあちゃんの代に起きた世の中の変遷で、生き延びるために、ペ
ルーの言葉を覚え、文化に同化していった歴史。その年代の人たちは特に強く、子供
達に日本の文化,言葉を伝えていきたいと願っているように思われます。
ペルーもまた、不況,失業率は高く、大学を出ても職に就けない若者も多いです。日
本へ出稼ぎに行く両親も少なくありません。今,そういった面でも、日本語の習得は
新たな動機付けとなってきてるのかもしれません。
でも、何より、日系人の方たちの、日本人としての誇りを感じずにはいられません。
そういったわけで、ペルーでは日本語教育が盛んです。
Q.1920年ごろ、ペルーで黄熱病という病気がはやり、多くの人々が
亡くなったことは、ペルーの人々に知られていますか?
また、そのときの野口英世の活躍は知られているんでしょうか?
ペルーでノグチ博士は、サンマルコス大学という、南米で一番古い格式ある大学の、
名誉教授の称号を受けています。
最近では、記念病院もできています。しかし、今の若い人やペルー人の大半はすで
に、彼のことを知らない人が多いのではないでしょうか。
エクアドルでは、ノグチ通りや、通りに野口像などもあり、ペルーより彼の業績は知
られているかもしれません。
ノグチ学園では「日秘友好ノグチヒデヨ記念資料館」の準備を進めていましたが、昨
年11月、先生や生徒達の手作りで、落成の運びとなりました。
Q.ノグチヒデヨ学園の生徒さん達は、野口英世博士のことをどう思っているのですか?
スペイン語で書かれた彼の簡単な伝記があり、先生方はみな、それを読んで彼のこと
とを学んでいます。
子供達はビデオで彼の映画を見たりもします。
また、11月にはノグチヒデヨ週間があり、生徒達は彼について作文を書いたり、詩
を読んだり、書道で「野口英世」と書いたり、色んな行事をしています。
私は、受け持っているクラスの中学生に
@「彼について知っていること」
A「彼の生き様をどう思うか」
B「自分はどのように生きたいか」
という作文を書いてもらいました。
@については、大体一般的に知られていることは、伝記で知っているようで、大酒の
みだった父親のことや、彼のために尽力した友人達のことも書かれていました。
Aでは、「貧しい家に生まれたのに、自分で勉強し医者になった、えらい人」「手の
怪我に負けずにがんばった」「黄熱病のウイルスを見つけてくれた」など一般的な内
容に、ペルーならではの「黄熱病」という言葉が多かったのが印象的でした。
Bについては、野口博士に関わらず、この学園の生徒達がどのような夢を持っている
のかという、関心もありました。
「自分の望む大学へ行って、専門を身に付けたい」「家族の喜ぶような将来を」そう
いった答えが多い中で、一人、14歳とは思えないような?あるいは14歳らしい健全
な、内容で心を打った女生徒がいました。
「ノグチの生き方は様々な困難があったにも関わらず、彼に学ぶ価値のある人生だっ
た。」「何度困難にあっても、決してあきらめなかった」
「私はいつか愛する人と共に生きたいと願う。でもそれは、彼にお金を稼いで
欲しいとか、そんなためではない。私は私の望む勉強をしたいし、私の望む生き方を
したい。いつか子供が出来たなら、人を心から愛することや、人生で何が大事なのか
を教えたい。人を大切にすることなど」
「たとえば朝、目が覚めて、お日様が照っていて『何て気持ちいい日だろう』、そん
な風に思いたい。戦争のニュースや悲しい事件なんて、絶対に嫌だ」
野口学園では毎朝8時から、校庭で朝礼があります。
カトリックのやり方でお祈りを唱えた後、ラジオ体操をします。
みんなの祈る姿を見ながら私は、この子達の未来に光あれ、そう祈るばかりです。