ペルー日記(2002年8月)
7月24日〜8月11日
20代最後の夏を、スペインで過ごしている。
ふと思ったりする。初めて海外に旅した20歳の夏からずっと、何に向かって走りつづけて
きたんだろう。
いつも、走り出した気持ちを抑えられるような自分じゃなかった。人の心配もお構いなし。
状況の如何に関わらず心動かされたものに突っ走ってしまう。それは今も変わらない。
93年の夏、横浜から蘇州号に乗った。片道切符で2万円くらいだったと思う。上海ま
で3泊4日の船旅には、今も忘れがたい出会いがあった。70歳を越える細い体に大き
なリュックを背負って、戦時にお世話になった方に会いにベトナムへ旅するというおじいさ
ん。旅なれた、飄々としたおもしろさの中に強さを感じさせた。
上海は勝手知ったるもので、北京ダックのおいしくて安いお店から、老舗のホテルのジャズ
バーまで案内して下さった。地味なTシャツとズボンの私はおじいさんに手をとられ、ワル
ツのステップも知らずにホールの真中へ踊りだし、集っていた老齢のお客さんたちに大拍
手をうけたっけ。その後チベット、アラスカと旅する私のハガキに、羨ましいやら悔しい
やら・・と。すでに旅が体力との戦いになり、また奥様の健康状態も気にかかり思うよう
に旅を重ねられなくなってきたという彼の言葉だった。
船に乗る当日の朝は、「行ってきます」をいうために実家の母に電話をかけたのに、怖気
づいて、何も言えずに電話口で涙を流してた。ずっと親戚に大反対されている中、それでも
旅の計画をあきらめない私に母は「(何かあったら)生まなかったものだと思う」そう言っ
た。その母が電話口で「しっかりしなさい!ちゃんと船に乗って、しっかり行ってらっしゃい」
そう私を叱咤し励ましてくれたのだった。あの母の強さは今も忘れられない。
言葉もわからない私をたくさんの中国の人々が助け、導いてくれた。
筆談と身振り手振りで敦煌までたどり着いたとき、この旅の意義を得た思いがした。それは
ある窟での一体の仏像との出会いからだった。
2kmにも渡り大小200を越える窟々。砂漠の砂に押し寄せられ、手を加えて保存すべき
かこのままを維持するべきかと当時、問題になっていたと思う。
たくさんの観光客がガイドと共に窟を去り、一人取り残された私は、静かにある仏像と向き
合った。自然と涙が流れ、ひざまづいて祈っていた。幾千もの壁に描かれた目が私を見つ
めていた。悠久の時の中で、人の手によるこれらの作品が今、人の手を離れ、命を持ち語
りかけてくるようだった。大日を抱いた仏像が中心に立ち、その前左右にかしづく仏像の
中の一体が、私の心を揺さぶって止まなかった。自分は中心に立つ大きな存在にはなれな
い。でも、こうして大きなものに仕え、人々のために祈ることはできる・・・すべての
人々の幸せをその時、真剣に想ったのだ。
その想いは今も原点にある。
もちろん、そんなにきれいな自分ではない。いつも悩み迷っているし、人以上に思うままに
生きてきた、と思う。それは、大切な人々を傷つける上になりたつことも多くあった。人を
傷つけ自分もまた傷つき涙し、消し去りたい否定したい自分を多々感じた。それでも、こう
して歩いてきた。否定の上に肯定を重ねながら。そんな自分を人は驚くほど前向きと評する。
敦煌での経験に似た思いを、会社を辞めて熊野に旅立った時、再度体験した。熊野本宮
でお世話になった宮司さんに、記念に御祓いを受けたときだった。何を祈願しますかと聞
かれ、明確なもののなかった私はとりあえず「心願成就」を掲げた。
宮司さんは全身全霊で祈ってくださった。私は火の中にいるような熱さを感じ、涙が流れ
た。大いなるものの手足となって、働きたい。こんな自分でも何かの役に立てる場を与え
てください。そんな思いに充たされた。
当時、再就職の当てもなく、これからどのように生きるのか、答えの出ていなかった私が
持った唯一の光だった。
ペルーに旅立つとき、友人達は心配し「今回ばかりはちょっと走りすぎじゃないか」そう
言ってくれた。行く先の見えないまま船出をする私がいつかたどりつける港があるようにと、
言ってくださる方もあった。
「何てことはない、行く先もはっきりしている。レールがしかれている上を歩くだけじゃない
か。私ほど気ままに生きてる人は他に知らない」そんな言葉も一理あった。
今、残りわずかなペルーでの日々の中で自分に何が残せるかと考えるとき、これらの記憶
がよみがえる。「志を得ずば再びこの地を踏まず」そう家の柱に刻んだ野口英世の志を思
うとき、私の志は何だったのだろうと、改めて考えこまされる。大いなるもの=野口英世
と考えると、私はその手足=語り部となって、この地に活躍の場を与えられたのだといえ
るだろう。しかし、うーん・・と、ここで首をひねってしまう。思いだけが空回りしてい
ないだろうか、と。とにかく今はできることをできるところまで、やるしかない、のだけれど。
8月29日〜9月1日
SATIPO旅行
"ceja de selva"(セルバの眉=密林地セルバと山岳地シエラとの境目)と言われるサティ
ポへ、プレンサ日系という新聞社主催のツアー旅行で行って来ました。
リマからバスで約12時間。総勢81名。バス2台に分乗したメンバーの約9割は日系人だっ
と思います。スペイン語での会話の間に、おもむろに日本の単語がはさまれびっくりするこ
としたばし。名簿も姓は日本姓、名はスペイン語がずらっとで、例えば中山とか山本、松田
といった耳に親しんだ姓のあとにフランシスコとかホセといったスペイン語の名が続くので
す。でも皆さん,本当に気持ちのいい陽気な方々で、改めて日系人社会のパワーを感じま
した。バスの中ではアルコールの持込やカラオケのないのが日本の団体旅行と違ったとこ
ろで、穏やかに快適な?バスの旅でした。まあ、標高4800mの峠越えでお酒を飲もう
と言う人もないでしょうけれど。。
詳しくはペルー旅日記にて。
ペルー日記
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