ペルー日記(2002年12月)

2002年12月17日

私と会津の深い関わりは、この方との出会いから始まったかもしれない。歴史
も何もトンチンカンだった私を導き、大きな働きのもとに集まる時、必ずそこ
にいた方。たとえば、「会津の心」「正伝 野口英世」の著者である北篤先生
の講演会、星野道夫さんを巡る映画ガイアシンフォニーの上映会と龍村仁監督
の講演会、アラスカの語り部ボブ・サムとの神話を語り継ぐ会・・。
人は祈っている時、一人ではない、きっと誰かも今、祈っているのだ、そんな
想いを現実の力として感じさせてくださった方。
その方が、ペルーへいらした。4日間という短い期間でしたが、まるで何かに
導かれているかのように、必要な方々に出会い、目的であった、ダニエル・カ
リオンと野口英世のつながりである、カリオン病についての話をそれぞれの権
威から伺う事ができました。しかし残念なことに、カリオンとノグチのつなが
りについては、医師たちの間ですら意外なほどに知られていませんでした。

私自身、ダニエル・カリオンについては何も知りませんでした。生徒達に聞い
てみたところ、「医学の殉教者」「野口英世と一緒に研究した」などという答
えが返ってきました。(詳しくは別章「共振する二つの魂−野口英世とダニエ
ル・カリオン」を参照下さい)
実際は、カリオンの亡くなったずっと後に、野口博士はペルーを訪れています。
しかし、この二つの魂は時を超えて出会い、共振し、野口英世博士はその限ら
れた時間の中で、カリオンの為に、彼の無念を果たすために、膨大な手間と時
間を捧げ、研究を完成させるのです。

ダニエル・カリオンは、野口英世がペルーを訪れるずっと前に、その当時、死
の風土病であったペルーイボとオロヤ熱の二つ病気を解明するために、自らの
体を実験台にし、患者の血を接種し、その病状をノートに克明に記し、二つの
病気は一つの同じ病原菌によって起こることを明らかにしながら、28歳の若
さで亡くなった、医学の殉教者です。この命をかけた研究と犠牲によって、こ
の二つの病気は「カリオン氏病」とペルーの医師たちによって名づけられまし
た。しかし医学的技法が未熟で記録も失われたために、アメリカの医師団によ
って彼の命がけの研究は否定されました。ペルーを訪れてそのことを知った野
口博士は、亡くなる直前まで彼の研究を引き継いで明らかにし、カリオンの正
しかったことを学会に発表します。

命をかけたカリオンの偉業を称えてというよりは、それを否定した不正義への
怒り、志に充ち人々の為に差し出されたいのちへの、敬を欠いた振る舞いへの
憤懣、それが野口博士にあふれたのではないでしょうか。そしてその無念を晴
らすべく万端を持して、カリオン病に臨んだ、それは会津の心にも通じるもの、
そこに野口英世博士と我々の間の共感もあるという気がします。

11月は野口英世月間。あわせて作文のコンクールを主催しました。集まった
作文を何人かの先生方が採点し、12月20日の終了式で表彰します。
2年間の想いをこめて、生徒達へ次のテーマを掲げました。
1.対象:中学1−2年生
・ 英世の人生の中で、どの部分が印象に残っていますか?あるいは共感を覚
えましたか?またそれはなぜですか?
2.対象:中学3−4年生
・ 野口英世の生涯をふりかえって、人生において目標を持つ事が、なぜ大切
なのだと思いますか?
3.対象:中学5年生(一つ選択)
・ 野口英世とペルーの殉教者ダニエル・カリオンについて、その関連性。
・ 科学における業績以外で、どこに、野口英世の真価を感じますか?
・ 野口英世を包む母の愛と、人類愛、様々な愛について。

その生徒達の作文の中で珠玉のような言葉をいくつも見ることになりました。
特に、中学5年生のパウロが書いた作文「カリオンとノグチの献身と謙虚」は
読んでいて胸が詰まりました。二人の人生を対比しながらそこに彼は自分の人
生も見ていたようです。父の愛を知らず育ったカリオン。その分まで強い母の
愛によって隣人への愛、献身を、その胸にやきつけていく。白人系の母を持ち
ながらも容貌はアンデスの男だったカリオンは差別に苦しみ人生の苦さを味わ
う。そして同朋達が苦しむ姿を親身に看病し、研究を続け、弱冠28歳の彼の
犠牲は、顔も知らない名も知らない、今の世に続く人々を救いました。ここに
パウロは彼らから学ぶ最大のことを感じています。

「世の中を変えたいのなら、まず私たちから」「彼ら自身もまた人生をかけて
守ろうとしたもの、その努力の真価に学び、続こう」そう語りかけています。
彼らの中にカリオンは生きている。生徒一人一人が想像以上に強い想いで、英
世を、カリオンを、その中に持っていたのを、今になってやっと知りました。

ペルーでのカリオン研究の第一人者Dr.シロのカリオン伝記を読むと、カリ
オンがペルーイボの接種を決意し学長の部屋を訪れた時の様子がわかります。
「何がおころうとかまわない、私は接種を行いたいのです」その手にはすでに、
接種を自分で行うための小さなメスが握られていて、左手の内側と上部に打と
うとしたのを、見かねてドクターが手伝い、両腕に4箇所、接種した。そし
て高熱と悪寒と歯の根があわないほどの震えと歩けない程の関節の痛み、貧血、
下痢、衰弱・・彼は確信を持って宣言しました、二つの病気は一つのものであ
ると。最期の時を迎える前に、友に向かい言いました。
「(私は)まだ死んでいない・・友よ、今度はあなたたちが、私が始めたこの
仕事を終わらせる番だよ、私がたどった道をついで・・・」

今、彼のことを想うと胸がつまる。彼はもう一人の私であり友人であり、彼の
決断とその行為は決して他人事ではなく、生きることの意味を真っ向から問い
かけてきている、そう思えるようになったから。
いかに生きたかではなく、いかに生き得るかを。

12月19日

一牛さんと一緒に天野博物館を訪れた際、グレートジャーニーの関野吉晴氏が
リマにいらしていることをお聞きし、何と夕食に同席させていただける運びに
なりました。いつもお世話になっている、リマ在住の太田さんのお宅に集まっ
た面々はいずれも個性豊かで、日本ではなかなかお会いできなかったであろう
ような方ばかり。一緒におでんなどごちそうになりながら、初めてお会いした
関野さんの瞳と話し振りには人柄が偲ばれ、親交の深かった星野道夫さんもき
っとこのような瞳であったろうかと思うような、穏やかだけど意思の強さが深
く澄んだ水底に光るような、静かで、でも惹きつけられずにはいられない眼差
しが、心の琴線をゆらしていました。
ペルーに来て間もない頃、私の夢は、いつか南米からアラスカまで、モンゴロ
イドの旅路を逆に、神話を訪ねながらたどり着く事でした。そう、グレートジ
ャーニー。関野さんはすべて自分の力で、自転車を走らせ、カヌーを漕ぎ海を
渡り、10年の月日をかけて、前へ歩を進め続けたのです。

ペルーに来る前の12月、会津で最後にもった大きな集まりが、アラスカの神
話の語り部ボブ・サム氏をよんでの「神話を語り継ぐ会」でした。
なぜ今、神話なのか。主催するメンバーで時間をかけて何度も話し合われまし
た。それは遠い世界の、あるいは一民族の物語ではない。私たちがどこからき
て、どこへ行こうとしているのか。私たちが自然や世の中とのかかわりの中で
大切にしていたものは何であったか。それを思い出すのは、もう一度、私たち
自身の神話を語り始めるために、つまり未来のために必要なこと。全ての他者、
自然や動物達へさえも敬意を忘れなかった先人たちの生きる姿。世の中といい
関係を保つためには守るべきルールがあり、それは自分を支える全世界を構成
する他のいのちへの尊厳であること。神話とは、見える世界と見えない世界と
のつながりを時間と空間を超えて感じさせてくれる、忘れられるべきではない、
宗教や文化を超えた、あるいはその大元である大切なことを教えているのでは
ないでしょうか。それはグローバル化の時代にこそ必要な知恵、未来を過たな
いために探るべき原型が神話の中にはあると思うのです。それにしてもペルー
生活の最後に関野さんにお会いできたこと、ご褒美だったのでしょうか!

12月20日 卒業式。

二年の月日は流れ、二度目の終了・卒業式です。
今回は最後の最後に会津から稀人来たりで、一牛さんに最後の授業をして頂き
ました。人は何のために学ぶのか。
「必ずしも医者でなくてもいいんだよ。大工さんでも、花屋さんでも、お菓子
売りでも、野口博士の志を持つことができるんだよ」
「医師志望のカレンには考えるのは難しかったと思いましたが、他の子供たち
がみな医者を志望できるわけではないことと、博士の献身と謙虚はその対象が
人類愛にまで高められていることを学んでほしいからです。」

卒業生で主席となったのはパウロでした。彼は3人兄弟の長男で、物腰の穏や
かで優秀な、ユーモアのある生徒でした。リマのセントロを歩いていた時、教
会で目にした「掃除の聖人」に似た黒い顔と穏やかな物腰。「掃除の聖人」は
貧しいけれど敬虔な教徒で、たしか黒人の自分を受け入れてくれた教会に感謝
し、何もできないからといつも手にはホウキを持ち、足元には犬や猫、ねずみ
までが、自分のわずかな食べ物を分けてくれる彼を慕って集まっていたという、
リマでは親しく信仰されている聖人の一人です。
卒業式の後でのクラス懇談で彼のお母さんが、感謝の言葉を述べていました。
世の中物質至上主義に傾き、学校はいい大学へ入るための技術的な指導に重き
をおきがちだけれど、このノグチ学園のように、精神的な面、その力を重視し
た教育が大切だと思うと、仰っていました。
表彰と奨学金を受賞し感涙にむせる彼のもとに歓喜して駆け寄ったお母さんも
また泣いてらっしゃいました。共に学んできた友人達が彼の肩をたたいていま
す。彼はこれから大学へ進みます。

夜には中学生たちの卒業式とパーティが学園で開かれました。
青いマントに身を包んでの卒業証書授与式が済むと、各々自由に着飾ったドレ
スとスーツ姿で朝まで踊りつづけていました。

彼らとは9月に修学旅行でアレキパへ5日間、一緒の時を過ごしました。中学
5年生といえば日本では高校生。生意気盛りで小学生達のように無邪気に駆け
寄ってくれる年齢ではありません。普段の授業でもなかなか言う事を聞いてく
れなかったり、扱いかねることもしばしばでしたが、それでもやはりおおむね
は素直で気配りのできるいい子たちで、この学園にはまだ、そういうよさを失
わないでいられる素朴というか、いい校風が残っていると思いました。

終了式で2年間共に過ごせた感謝と別れの言葉を述べる時には、また声がつま
ってしまいましたけれど、彼らが笑顔で声援を送ってくれました。
卒業式ともにあっさりと終わり、でもそれでいいんだと思いました。誰にも惜
しまれず何事もなかったかのように去れるならそれにこしたことはない。そし
て本当に心をさらけ出してぶつかった子供たちはたしかに私の言葉を聞いてい
てくれた。受け入れてくれた。それだけでいい。いつも笑顔で駆け寄ってくれ
た子供たちがあった。そして同じようにまた新しい先生を迎え彼らなりに何か
を心に残していく。あるいは忘れていく。それでいい。共に過ごした時間は確
かに存在している。私の心に彼らの瞳が残っている。私は彼らを忘れない。

どんな大きな事を成し遂げた方だってその過程できっと迷うのでしょう。
でも志をたてた人だから、いつか成し遂げたことを知る日がくるのでしょう。
私の志は何だったのか。会津のことを、その心を、野口英世のことや、私を通
して語ること感じてもらうこと、そして彼らの心に志という文字を刻むこと。
まだ自分がどこまで何を為せたのかわからない。でももう私も旅立たなければ。
そしてこれからの私の志を見つけよう。私を立てるものを。

最後に。 この日記をずっと読んでくださった方、共感したり共に泣いたり笑ったりして
くれていた友達、独り善がりにならないようにと大切なメッセージを送ってく
れた友、励まし支えつづけてくれた皆さん、本当にありがとうございました。
そして、ボランティアでこのホームページを立ち上げ、筆の遅い私の更新を待
ち続けて、ここまでお付き合いくださった磐梯山噴火記念館の佐藤様。
本当に、お世話になりました。佐藤さんのおかげで沢山の方たちの目にふれ、
ペルーに野口英世学園ありと、ここに2年間の記録を残すことができました。
伝えきれないたくさんの感謝の想いと共に、ここでの月日を終えることができ
た私は本当に幸せ者です。2年間の経験はかけがえのないものだったけれど、
ここまで来られたのは、たくさんの方々に見守られ、励まされ、力を送ってい
ただいたからです。感謝だけではすまない気持ちを、これからの人生で、大き
なつながりの中、身近なところから返していけることを願うばかりです。

追伸

2004年より野口英世が新札に登場することになりました。それにあたって、
生徒達が自由に描いた絵を、一部ここに紹介したいと思います。
この絵は取材を行った映像ジャーナリストの畠山えり子さんによって、200
3年9月8日午後五時からの『Lばんスーパーニュース』福島テレビにて特集
されました。その後、生徒達の絵は猪苗代町にある野口英世記念館に寄贈され
ました。機会があればぜひご覧になって欲しいすばらしい絵ばかりです。

「ノグチを育てた母」リカルド/中学2年生

「野口英世を偲び世界中で花をあげている」エリック/中学1年生

「ノグチ学園で学ぶ私たちの後ろで見守る博士」カレン/中学3年生

「世界を結びノグチ博士に続いていこう」ナタリア/中学3年生


ペルー日記