ペルー日記(2002年11月)

2002年11月5日

11月9日は野口英世の生誕日。

何か記念の行事を開きたい、できればその場でスピーチをしたい。
会津の一牛さんとのやりとりで進んでいる会津野口物語は英世の父、佐代助の
章に進んでいた。佐代助のくだりになると涙がおさえられなかった。
これを伝えたい、そう思った。
父佐代助のこと、自分を形作るもののこと、ふるさとのこと、両親のこと、歴
史、そして出会い。それらをもう一度、心をこめて伝えたいと思った。
佐代助の悲しみ、他人事には思えなかった。自分の父と重ねている部分があっ
たのだろう。人のよい、しかし意思の弱かった父。酒や賭け事におぼれ
家族を失い病いにたおれ、最後は一人になって。それでもそのやさしい面影は
心から去らなかった。私の半分は父なんだと思わずに居られない時が何度もあ
ったから。
しかし、どれだけ伝えられるのだろう。
私のうしろに道ができるのか、まだわからない。
この遠い道程を、私達は全身の力で拓いていかねばならない。
高村光太郎の詩のように。
でも、この瞬間瞬間に目的は遂行されつつあるのかもしれない。。
冷静になって伝えたいことを伝えようと思うのに、先に涙が流れてしまう。

父が亡くなった。次兄からの電話で知った。5日の夜、心不全。
兄と母と電話で話した。お葬式は兄達が責任を持ってやるから、私は帰ってこ
ないように、今度帰ったときにお墓参りに、それでいいからと言われた。
小学5年生の時に父と母が離婚してから、私達子供3人は、父の分まで全身全
霊奮闘した母の元で、育て上げられた。その後も私は父とたまに会ったりして
いたけれど、4年前にガンで入院し、一命をとりとめてからは、父との連絡を
絶っていた。それからも、手紙はたまに出した。返事の来たことはなかった。
最後に手紙を出したのはもう1年以上前、結婚の決意をかためたことと、ペル
ーに居ることを伝えるものだった。
「わかった、帰らない。私の分までお線香あげて・・」妙に落ち着いた気持ち
で電話を切った。すると父の住んでいた家の隣に住む幼馴染の友人からの電話。
彼女は泣いていた。自らも病身の体をおして、様子を見に行ってくれたらしい。
私に代わって、何かお花をあげてきたい、そう言って、私の分まで泣いていた。
自分の中でも何かの堰が切れたように、嗚咽が込み上げた。受話器を耳に押し
当てたまま二人、泣いた。私も帰らずに、ここでできることをしようと思った。
9日のスピーチのことを考えていた。でも、それでいいのかという迷いもあっ
た。しかし、離れている中でこういう時を迎えたのは、もしかしたら、最後の
父のやさしさだったのかもしれない。誰より甘え、可愛がってくれていた父だ
から。悲しませる姿を見せたくなかったのかもしれない。でも私はここにいて
いいのだろうか?告別に間に合うものなら帰りたかった。けれど、どうしても
その日の夕方に着く飛行機しかない。ついた頃にはもう火葬になっている。あ
きらめよう・・これが選んだ道なんだと思い。想像の力はすべてを補えるから、
ここで祈りを捧げることが試されてるのか、それが望んだことだったのか。と
にかくここに残ろう。英世だって親の死に目には会えなかった。でも魂では再
会を果たしている。悲しみは私一人のものじゃない。
・・理解してることと感情が大きな波のようにうちよせたりひいたりしている。

11月8日

パパ。

今、母から電話があってね、火を入れたって。
あと1時間半くらいできれいなお骨になるね。
そばに居られなくてごめん。帰ること、できなかった。不思議なものだね。帰
りたいと思ったら帰れなかった。決めるのに一晩かかったのに―
次兄から電話をもらった。はじめて。その時、おかしいって気がつけばいいも
のを、何も考えないで、世間話してた。そしたら突然、親父が死んだぞって。
それを聞いた瞬間、なぜか納得してた。ああ、そうだったのかって。悲しみや
痛みよりも「楽になったんじゃないかな」そんな言葉が口をついて出た。肩の
荷がおりたような気がした。もちろん、私じゃなく、父の。
私の半分、私を形作ってくれた父。私の読書好きなところ、極楽トンボぶりは
彼譲りだ。疑いようなく。
電話を切って部屋に戻って、それから大声で泣いた。父のおもかげを残すもの
を探したけれど、何もなかった。それが余計に悲しくなった。
なぜ、もっと手紙を書かなかったんだろう。返事なんかもらえなくたってよか
ったんだ。どうして待ってくれなかったのか・・後から後から、悔いがこぼれ
る。それと同時に、でもこれでよかったんだと、納得させようとしている自分
がいる、父の魂を悲しませたくない。
今は、光ある方へ、迷わず進んでいけるように、祈ります
私を生んでくれた父。ありがとう、どうか、楽になって、
おばあちゃんやおじいちゃんのもとへと、無事に着いて。
あなたの、いのちに、感謝します。今は、ただ、安らかでありますように―

11月9日 野口英世記念日

「ごめんなさい。私は弱い人間です。今日はスピーチ読めなかった。想いをこ
めて書いたけど、なんだか英世の記念日というより、野口英世学園としての1
5周年のお祭りだから、あんまり長いのはと、読む前に副校長先生にとめられ
て、悲しくなって、スピーチの文章だけ校長先生に預けて帰ってきてしまいま
した。ごめんなさい。今日読まれるかどうかわからないけど、今度落ち着いた
ら、クラスで話すようにします。たくさんの人が集まってる中でいつものよう
にニコニコふるまっていられなかった。ごめんなさい。安達太良、吾妻連峰も
すっかり雪景色と母からメールが届きました。こちらは太陽が出てきました。
くよくよしてられないと思わせるような暑さです。
でもまだだめなじぶんです。」

「富美子さんの立場を理解していませんでした。日本語だけ教えていればよい
と、もし宮城校長先生が考えているとしたら、私ならその日のうちに荷物をた
たんで帰国するでしょう。でも野口博士は違う。こういうとき『忍耐』せよと
説きます。目的がはっきりしているなら、その実現のためを思って決して短気
を起こすなと。その代わり自分の節は曲げない。頼み込んで頼み込んで新天地
を求めました。
清作がつらい想いを綴った作文を友人の前で読み上げるシーンが、番組でも映
画でも出てきますが、実際は違います。清作は作文を書いて提出するとその日
は早退してしまいます。小林先生が清作の作文を見てその苦悩の深さに改めて
心うたれ、生徒たちにも読み聞かせるのです。あなたが読めなかった気持と清
作の心情がだぶります。校長先生にお任せしましょう。少なくともボスの心に
響けばそれでいいではありませんか。大事なのは生徒一人一人の心に小さなと
もしびを灯すことです。スピーチは求められてするもの。富美子さん、ちっと
も弱虫ではありませんよ。あなたは太陽ではないのです。だからいつもニコニ
コしてなくていいです。太陽はかなしみを癒さないのだから。
清作がどういう気持でその日教室を去ったのか。パフォーマンスという作家が
いるけれど、作文を書いてすぐに早退する気持を想像することができたなら。
その日の作文のテーマは「私の夢」でした。期待されていたのは卒業を控えて
の将来の明るい展望。しかし清作はこの左手のいたみのために、明るい未来を
かたれない。自分は何のために生まれここにいるのか。答えられない自分に無
力感を感じました。悲しい現実を直視する清作。真情を吐露する代わり、いた
たまれない気持で清作はその場を立ち去ります。あなたもいたたまれなかった。
清作もあなたも同じ一瞬に置かれ、等しく行動しました。清作は弱い人間です。
かなしいけれど誇りに思います。」

11月14日

1週間、学校を休んでしまいました。
6日の朝は何とか元気をだして授業へ行ったのですが、それきり。。
9日のスピーチは私のかわりに女の先生が読んでくれたそうです。今日、久し
ぶりに授業に行ったら、中学生の子にもっと彼のことを知りたいと言われ、書
いた文章を貸してほしいとねだられました。
この子たちには本当に頭が下がります。
6日の午後の中学1,2年生とのクラスで。自分自身のふさぎがちな気分を払お
うと、最初の1時間目は椅子とりゲームで盛り上がり、2時間目は歌の時間!
とピアノのある大教室へ行きました。最近教え始めたふるさとの歌を弾き始め
たとき・・不覚にも涙があふれてしまい、いつも言うことを聞かない元気いっ
ぱいの彼らの戸惑う顔。「実は昨日、父が日本で亡くなって・・帰りたかった
んだけど帰れなかった」そう、泣き笑いにごまかそうとしながら伝えたら、抑
えきれなくなって情けないことに泣き出してしまった自分。すると、一人、二
人と席を立って、私の肩をたたき抱きしめてくれ。。「寂しくならないで。俺
達がついてるから」「笑って笑って・・・!」やんちゃ坊主だと思ってた男の
子がそう真っ先に言って・・。女の子達もまた目に涙をためながら、笑って見
せてくれてます。クラス中の子が一人ずつ側に来ては、励まし、抱きしめてく
れました。その時、本当に申し訳ない気持ちがあふれてきました。
この子たちは、みな、悲しみを知っている、そしてこんなに優しさをあらわし
てくれている。。かなわないな、と。そしてそれぞれの辛い境遇の中でも笑顔
をなくさないでがんばってる彼らに、悲しい思いをさせてしまったことが、悔
やまれてなりませんでした。
誰もが通る悲しみなのに、自分の内に閉じこもっていた自分。後から知ったの
だけれど、最初に席を立ってきた男の子は一昨年、まだ小学生の時にやはり父
親を亡くし、弟や妹の面倒を見ながらお母さんを助け、そうして学校に通って
いたのです。
彼らに救われた自分。教室から出る時に「(日本に)帰らないで・・!」そう
すがってきた子。・・私はあなたたちのおかげで、今ここに立っていることが
できる。私が教えたことよりはるかにはるかに大きなことを、あなたたち一人
一人が教えてくれている。。
「志を果たしていつの日にか帰らん・・」
一人でもいい。私もまた彼らの心に響くものを残して帰れるだろうか。

11月24日〜12月4日

2年にわたり計画していた、母のペルー旅行がこのたび実現。それも伯父伯
母総勢5名様のご一行で。いずれもパワフルなメンバーの顔ぶれ。リマがにぎ
やかになりそう。。。
17:05成田発のコンチネンタル006便―ヒューストン経由(コンチネ ンタル1107便)にて23:23リマ着。宿泊先は二手に分かれ、男性3名
は日ごろ私がお世話になっている知人のペンション“ムンドアミーゴ”(大森
雅人さん経営)へ。空港の出迎えやら日本食の用意など、至れり尽せりのおも
てなし。着いた晩は早速、持参の日本酒やらウイスキーで大宴会だったとか。
母と伯母の女性2名は、ノグチ学園の校長先生宅泊。
空港から次第に暗い方へ、暗い方へと進む車の中で、二人は窓外の景色に絶
句しているもよう。最後はガタガタと懐かしいデコボコ道を行き、学園到着。
さあ、目覚めてからが楽しみ。
詳しくは旅日記にて。


ペルー日記