ペルー日記(2002年10月)

2002年10月16日

最近気が付いたことがあります。会津の歴史とペルーの歴史は重なるというこ
とです。ここにも豊かで高度な文化を花開かせた先住民族たちがいました。で
もスペインの侵入により迫害され住む所を追われた歴史。そして今、経済は思
うように進まないまま人々は明るい明日を夢見ることが難しくなっている。そ
んな中でわずかの希望にすべてをかけて前進し続けた博士の強さと民族を超え
た人類愛。ペルーを担う次の世代の子供達の心に、その強さを響かせられれば、
一人から家族、国、世界、全存在へとその想いの幅を広げていけるんじゃない
かな、と。まだ言葉にならないんだけど、何かかちっとはまったんです。他人
事じゃないんだ、彼らにとってって。

ずっと考えていました。日本人である野口英世が彼らにどう共感を与えるの
か?ただ日本人として彼を誇りに思うのでなく魂の同志として私達は存在しえ
る。彼らもまたそう。志は民族を超える。人としていかに生きるか、いかに生
き得るのか、それを伝えたかったんだと改めて感じました。痛みを知ってる彼
らだからこそ英世の苦しさと孤独な戦いにより深く共感できる。彼の生き様は
きっと力になる。素直な眼差しを持つ彼らの心にそれが響いたならば。知って
たようで気づいてなかった。腹におちてなかったんですね。

2002年10月30日 「NHKその時歴史が動いた」放送。
未公開書簡があかす野口英世の真実〜人類のために生き人類のために死す〜

ペルーでも同日、衛星放送で流され、日秘会館に行くと顔見知りの方々から、
「テレビを見たよ」「一生懸命スペイン語話してたね」などど声をかけられま
した。私は放送後まもなく、知人の録画したビデオを頂戴して見ました。
書簡を通じて英世の人となり、激しさとユーモアのセンス、母や妻への愛、そ
して、生涯忘れ得なかったふるさと会津猪苗代のことが、新たな認識と共感を
呼んだのではないかと思いました。
番組の中で印象に残った言葉を書き記しておきました。
『小生は悲しくも一冊の本なし。兵士も武器無くては叶わず。一冊ずつでもあ
がない求めいたしたくござ候』
『石をかじりても、土をくぐりても、ウーヤッツケテご覧に入れ申すべく候』
何としてでも悔いのない勉強をしたいという、なりふりかまわない借金。
『思えば思えば全力の他、余は無一文に候』
明治31年に入所した伝染病研究所でも、学歴の壁に阻まれ、その立場は志を
果たせるものではなかった。そして、フレキスナー博士との出会い。胸に燃え
た渡来への希望。
『只今の胸中は実に火の如く燃え 腸も断たれんばかりに候』
『あはれ一水呑の児 よくやれるや否や』
そして明治33年12月、アメリカへ。ここでも始めから全てがうまくいった
わけではなく、故郷の事、将来の事を考えながら眠りにつく日々。
『・・ここに不思議なるは夢なり。必ず幼年時の事のみ夢見ることに候。運動
会、鳥捕り、水浴び、秋日の田んぼの景、母の骨折りおること、父の酒機嫌、
姉の苦心、実家の破れ小屋に候。夢は無邪気なもの也、神聖なり、一点の野心
の存する余地なきなり。人は裸で生まれて裸で死する。天命なれば誰をか恨む
所ぞ』遠い異国の地で夢見た故郷の美しさに洗われる心と、天命を想う意思。
1904年10月、助手として正式採用されると、その猛烈な働きぶりに「人
間発電機」と。膨大な時間と手間をかけて多くの標本を徹底的に調べた。
そして10年の歳月が過ぎ、明治45年、母シカからの手紙。
『早くきてくだされ・・・一生の頼みでありまする。
西さ向いては拝み、東さ向いては拝みしております。北さ向いては拝みおりま
す。南さ向いては拝んでおりまする。これの返事、待ちておりまする。』
寒さにかじかんだ手で綴られた、字を知らなかった母の筆跡。しかし、今はま
だ帰るときではない・・志を得ていない、そう英世は帰国を見送った。

1912年、アイルランド系のメリーと結婚した英世は、新婚の食卓の上にも
顕微鏡を持ち込む日々だったが、メリーは英世を受け入れた。その翌年、梅毒
スピロヘーターの病原菌発見。それまで誰も探ろうとしなかった部分まで、思
い込んだら徹底的に探る姿勢が実を結んだ。その翌年、ノーベル賞候補に。
あくる大正4年、夢に見た、忘れることのなかった故郷へ。母シカとの15年
ぶりの再会。留守中世話になった家々に、一軒一軒あいさつをし、最後によう
やく、向き合った母の小さな姿。涙をこらえず抱き合う二人。38歳と63歳。
2ヵ月後、英世再び渡来。二人はこの後再び会うことはなかった。

そして大正7年6月。エクアドルでの黄熱病研究の依頼。死の伝染病、自らの
死の危険。しかし医学の真理をあかすことが自分の使命なら何を迷う事があろ
う。これまで自分は多くの人の助けを得て道を歩んできた。身を粉にして働く
母、手の手術のためこづかいをはたいてくれた級友、恩師。今度は自分が人類
の為に働く番だ――英世、41歳の旅立ち。
7/15、ゲートル姿でグアヤキル上陸。「一刻も早く研究にとりくみたい」
決して手を抜かず長年培ったやり方をつらぬき通した。
8/27、一ヶ月あまりで病原菌を発見。歓喜に包まれる町。
「私はこの恐ろしい病気の犠牲となる兄弟たちを救う幸福を皆様と分かち得た
ことを、心からうれしく思います。もしエクアドルにまた何事か起これば、私
は誰よりも先にはせ参じ、全力を尽くすでしょう」

エクアドルで野口英世は「危険を省みず人々の為に医学の研究を続けた人」と
して尊敬され続けています。国立グアヤキル大学では、多くの医師が彼の志を
ついで恵まれない子供達の往診を行っていました。
特にエクアドルの若い医師(大学病院研修員)の言葉が印象的でした。
「医療の届かない場所を訪ね、病気を探し、何より患者の側にいてあげること
―そんな英世の功績を知ると、自分も医学のために闘う意欲がわいてきます」
苦しむ人々の為にその身を捧げた英世の心、愛、そして命がけで闘った英世の
志は、訪れた地の人々の心の中に今も息づいています、と。
野口英世は国境を超えた。「病があれば命がけで南米へ、アフリカへと、どこ
へでも出かけて行った。行動する医者 国境なき医師団のパイオニア―。」

今までかけていた南米での英世の軌跡を知ることは、行動する医者英世の魂を
語るに一番ふさわしいと思いました。
ペルーでの部分も番組の最後で、私には感慨深かったです。知人たちはいつ出
るのか、もうカットされてしまったのではないかとハラハラして番組を見守っ
ていたようですが、「リマの学校の様子も分かり、また異国で野口英世の魂が
語り継がれているんだという驚きをもって迎えられたのではないか」とか、た
くさんメールをよせていただきました。いくつかご紹介させていただくと・・
「野口英世博士の素顔が今回の映像で一般的により具体的に解ってきたと思い
ます。二年間のあゆみ歳月は忘れられない一生の宝ですね!残された日々を大
切に」(母より)
「番組のトリとして富美子先生とその生徒たちが紹介されました。そこで、日
本語の教師としてではなく、英世の故郷会津から、日本の文化を紹介するボラ
ンティアとしてやって来たと紹介されました。「はっきりとした目的を持って、
そのために努力する人」として登場しているのです。予想通り短い時間でした
が、その重みは絶大でした。ペルーの野口学園という実証を得て番組は見事に
完結しているのです。」(会津の師より)
「野口英世に関しては、一般の人にとっては再認識するいい機会になったと思
います。リマの学校の様子が分かりました。ずいぶんスペイン語は上手くなり
ましたが、黒板の字は昔のままで、笑っちゃいました。元気そうで、子供たち
にもなつかれているようなので安心しました。あと少しの任期ですが、思い切
りやり残すことの無いようにしてください。」(猪苗代の元上司より)
「野口英世の思いが後世に引き継がれているということが理解できて、番組と
して深みが出たと感じました。」その他、思いもよらない方達からの反響も頂
きました。このような機会をいただいたこと、野口英世の魂がふたたび共感を
持って人々の心に語りかけを始めたであろうこと、深く感謝しております。


ペルー日記