ペルー日記(2001年9月)

9月8日

日記も大変ご無沙汰しておりました。
実は先週、8月29日から9月4日まで、日本へ帰国して参りました。
1月29日に出発してから、7ヶ月。
2年は帰らない覚悟で来たのに、思いもかけない、一時帰国でした。

成田空港に降り立つと、懐かしい兄の顔。
照れくさいような気持ちで、挨拶もそこそこに、車に乗り込むと、麦茶のペットボト
ル!さりげないやさしさに感謝しつつも、言葉はうまく出ないもの。相変わらず兄弟
には不器用な自分がいました。。そして、たくさんのおみやげとともに、新幹線でふ
るさと、福島へ。

駅に迎えに出てくれた母。久しぶりの我が家。まるで昨日の続きように、くつろい
でいる自分。
必要なときに、言葉は出てきてくれず、あんなにメールでやりとりし、思いを馳せて
いた故郷が、あまりにあっさりと目の前にありました。

翌日、電車で会津へ向かいました。
猪苗代が近づき、緑にうねる田畑、うっそうと茂る樹木、真っ白に広がるそばの花
畑、そして、磐梯山が視界に飛び込んできたとき、初めて、涙があふれました。
込みあがる思いは、抑えようもなく、「帰ってきた、帰ってきた」ただそれだけを、
思っていました。
ペルーにいても、瞳閉じたときに、いつも目に浮かんでいた風景。
会いたかった風景に、ようやく、会えた。
そしてまた、すぐに、この風景と別れ行く。
感動ともさびしさともつかない涙が、止めどもなく、ただ流れるばかりでした。

今回の帰国の目的は二つ。

一つは、今、私のいる野口学園で、「日秘友好ノグチヒデヨ記念博物館」の建設が始
まり、開設にあたって、何か彼に関するものを、寄贈いただけないかというお願い
に、会津の「野口英世を語り継ぐ会」代表の方と、新宿の野口英世記念会館を訪ねる
ことでした。

そして、もう一つは自分の人生に関することです。
思いもよらない展開で、自分自身でも驚いているくらいですから、家族の驚きは、な
おのほかでしょう。
でも、みんなあたたかく、祝福と共に迎えてくれ、本当に言葉を失うばかりでした。
会いたかった家族の顔。
友人達には連絡することもなく、バタバタと帰ってきてしまいました。
帰路の飛行機の中、ようやく落ち着いて、母に頼んで持たせてもらったおにぎりを頬
張ったとき、また涙があふれて、
家族の絆をかみしめるように、
このおにぎりのおいしさを、生涯忘れるまいと想うばかりでした。

地球半周。
この距離を実感したのは、ペルーに帰ってきてからです。
あまりに急いで旅して、体に心がついてこれなかったのでしょう。
休みの約2日間、眠りつづけました。
そして、目覚めたとき、心は体に戻って、
ここ、今、自分の生きるこの場所が、色彩を取り戻しました。

9月9日

日秘文化会館に隣接したテアトロで、今日は、リマ近郊の各学校の子供達による、
フォルクローレの発表会がありました。
野口学園からも、幼稚園、小学生、中学生のダンスと、フォルクロ−レの演奏が披露
されました。
他に日系の学校が5校参加。

華やかな衣装に着替え、子供達はすっかり古のインディへナになりきって、踊ったり
歌ったり。
それぞれの踊りにはストーリーがあり、男性が女性を奪い合う、おもしろいやりとり
も見られます。クスコ、プーノなど各地のアンデスの衣装をまとい、軽快に体全体を
躍動させながら、踊り、はねます。
何枚もの色を重ねたフレアーのスカートは、くるくる回るほどに、花が開き、二つに
編んだ長いおさげがはずみます。
幼稚園の子供も、ちゃんと自分の役割をわかっています。
太鼓をたたくまねをしたり、羊を追ったり。
スカートのすそをつまんで、リズムにあわせて体を揺らしながら、ステージ狭しと、
踊りの輪を広げていきます。

色を重ねるアンデスの衣装にうって変わって、白いドレスの少女達が踊るのは、マリ
ネラ。これはスペインのフラメンコがペルーに伝わり、独自に発展した優雅で、脚の
動きの軽快な踊りです。
白いヒールの足元も優雅に、蝶のようにスカートを揺らしながら、髪をきゅっと丸
め、手に白いハンカチーフを持ち、軽やかに、黒いタキシードの男性を翻弄するかの
ように、少女達は晴れやかに、踊ります。
観客の喝采に答える笑顔、ピンとのばした背筋と堂々とした態度は、大人顔負けで
す。

そして、一番こたえたのは、生徒達のかきならす、フォルクローレの響きでした。
この時、私の魂が夢から覚めたといっても過言ではないほどに。日本上空をさまよっ
ていた魂が、私のいる場所はここだと、見つけた瞬間でした。
1本の竹笛が、なぜにこんなに胸を打つ音色を響かせるのでしょう。
かきならすチャランゴに、哀切なギターの音が重なり、サンポーニャが風となって、
客席を包みます。太鼓のリズムは、古のままに、聴くものを躍らせます。

日本でも身近に聴くようになった、フォルクローレですが、そのリズムや踊りは、
生活の中で生まれたもの。
生活は歴史と共に変わってゆきますが、体のどこかに眠る懐かしさは、忘れられるこ
となく、こうした踊りや音楽の中に、いきいきと、顕れるのですね。

帰り道、色のない土壁の平屋が続く通りを、車の中からぼんやりと眺めていまし
た。その時々によって、寂しく映ったり、遠い異国の風景としてとらえたりしてきま
した。でも、寂しいと見える壁の奥にも、豊かな温かさがあるのかもしれない。
電気の灯らない家々に、それぞれの家族の暮らしが火を灯しているのかもしれない。
当たり前のことなのに、今日は何だかそんなことに、感慨深くなってしまいました。

9月11日

朝、学校へ行く前、「大変なことが起こった」と校長先生に呼び止められ、テレビを
見ると,アメリカのテロ事件の恐ろしい映像が,映し出されていました。

詳しい内容は、その日の夕方、日秘文化会館へ行って、NHKのニュースをかじりつく
ように見ていて,知りました。

何故,このような事件が起こるのか。

崩れ落ちたビルの下には、まだたくさんの人々が埋められている。

何も疑うことなく、いつものように出社したまま、行方を失った家族や知人の身を案
ずる気持ちは、どんなに深い苦しみの中にあるのか。

ただただ、ニュースを見て、悲しみに涙するしかできない自分。

他人事とは思えませんでした。

ペルーでもかつては、テロ事件が日常的に起きていたそうです。

翌日のニュースでは、救援活動に向かう消防士や警察官のために、食料や水を供給す
るボランティアの市民の姿がありました。

そして、愛する人の無事を祈る姿。

正しい行く先を見失った人々が、社会に向けて放つ悪しき戦いに、どれだけの命が犠
牲になっていくのか。
いかに生きるのか、一人一人が自分に問いかけ、いかに世界と関わっていくのか、よ
りよい道を選んでほしいと、ただ,願うばかりです。

今日は週に一回の、空手の日です。

日本人の先生に来ていただき、子供達は練習しています。

始めに、空手を学ぶ上での心がけとして、「親や先生,先輩を敬うこと」「礼儀を大
切にすること」「決してけんかをしないこと」そういったことを、教えてくださいま
した。

準備体操から始まって、基本の型を、私も子供達と一緒に習っています。

この子供達の未来が明るいものであることを、世界がよりよい方向へと進んでいくこ
とを、祈りながら、私にできる全てを、ここで果たしていきたいと思うばかりです。

9月20日

今日はお彼岸の入り、栗ご飯を煮ました・・という母からの便り。

こちらペルーも寒い中にも、太陽の出る日が少しずつ。日本の秋分に、こちらも春分
にあたるお祭があり、この9月最後の週は、「若者の週」といった意味になるそうで
す。

ノグチ学園はもうすぐ春休み。小学6年生と中学5年生は、卒業旅行に出かけます。私
も小学生と一緒にワラスへ行く予定。「一緒に行くんでしょう!」と喜んでくれる子
供達。「私たちの卒業旅行までここにいて!」とせがむ小さい子供達。。

また、11月には沖縄で、世界の沖縄出身者が集う「ウチナンチュー大会」がありま
す。沖縄出身で2世の校長先生と、娘さんのネイディは、これを機に沖縄へ出かける
予定。校長先生にとっては初めての沖縄訪問。両親や祖父母の生まれた故郷を見れる
のを,今から心待ちにしているようです。

その二人に、夕食を食べながら、質問を受け、答えに窮してしまいました。

ペルーでも連日、アメリカのテロ事件のニュースが報道されています。

沖縄や、横須賀など日本の米基地から、戦闘機が飛び立った様子も。

沖縄の基地問題のことは、ペルーに住む彼女たちにとっても、決して遠くない問題。
そして、今回戦争がおこった場合、たとえ基地から飛ぶのはアメリカの飛行機でも、
攻撃を受けるのは日本なのではないか。日本の人たちは戦争をしたくなくとも、協力
するというのは、そういうことになるのではないのか、と。

今回のテロ事件は、世界中が他人事ではなく受け取っています。日本人含め信じたく
ないほどの犠牲者が出ました。憎むべきはテロです。しかし、どのように戦うのか。
世界は動くのか。そして日本はどのような立場で支援するというのでしょう。

世論や詳しい流れは、わかりません。日本で今、人々はどのように感じ,動こうとし
ているのか。

必要な戦いはあるのかもしれません。しかし、どれだけの命を、犠牲にすることにな
るのでしょう。戦場に赴く人だけじゃない。戦場となる地に住む、戦う力も持たない
人たち。

世界はその進む道を今、大きな痛みと共に問われているのでしょうか。


ペルー日記