ペルー日記(2001年10月)

10月4日

4泊5日の修学旅行から今朝、5時半に帰ってきました。

場所はワラス。リマから北へ400km、アンデスの街です。標高3000M〜50
00Mくらいの山地を上がったり下ったりしながら、遺跡や自然を見学しました。

小学6年生16名と女の先生2人、お母さん方3人。引率は女性ばかりで、しかも日本語
を話す方はなく、行く前はどうなることか少し心配していたのだけど、全然問題はあ
りませんでした。
普段は限られた言葉で、事足りていたけれど、朝から夜まで子供達と一緒に過ごし、
観光していたおかげで、新しい言葉や言い回しも覚えるきっかけになりました。現地
ガイドと記録ビデオ用のカメラマンも5日間、同行したのですが、ガイドのスペイン
語も、以前ワラスへ行った際よりは、理解できるようになっていました。

子供達はいつ電池が切れるかと思うくらい、最後の最後まで目一杯、元気にしていま
した。

しかも、先生ふくめみんなマイペース。
朝7時出発とガイドに言われ、その気で待つこと1時間。
連日、出発と言われた時間に、みんなシャワー浴びたり、お湯が出ないとか騒いだ
り。。結局毎回、予定より1時間きっかり遅れて食事、出発していました。最後まで
今日こそは・・と信じて早起きしてたのは私だけ?!

いろんな発見があった5日間です。
子供って、こんなにかわいいものかと改めて思ったり。食べるしぐさなど、見ていて
飽きないものですね。
でも、同時に大変さも感じたりました。

見送り、出迎えにきてる家族の顔を見たら、何だか私もジーンと込み上げるものが
あったけど、旅行中はみんな、寂しそうな顔も見せず(寂しそうにしてても、目が合
うとにっと笑ってくれるから)、最後の日は大合唱でもりあがってました。

10月25日

夢の中にいるような一日が終わろうとしています。
今日は一日中、おめでとうの笑顔と抱擁の中にいました。

ペルーで迎えた誕生日。

小学生の子供達は、顔を見るとかけよってきて、自分達のクラスに手を引いて連れて
行って、誕生日の歌を歌ってくれたり、笛を吹いたり、得意な歌を披露してくれたり。
そして、一人ずつ「おめでとう!」と言って、頬にキスをし、抱きしめてくれます。

中学生もそう。手紙やプレゼントを持って駆け寄ってきてくれて、一人ずつベシー
ト。

先生たちは昼休みにパーティを開いてくれ、ケーキや食事をつまんだあと、授業も
そっちのけ?で夕方まで踊ったり歌ったり。

ミミさんは今日のために腕を振るって、お昼ご飯に特別メニューを作ってくれて、し
かもチーズケーキまで日本から持ってきた本を見ながら、作ってきてくれました。
初めてだし、ペルーにはあまりないので、うまく出来たのか心配していたけれど、本
当においしかった。

子供達がみんなニコニコ駆け寄ってきて、奪い合うように手を引いて教室へ連れて
行って、歌を歌ってくれて・・

一緒に笑っているうちに、何だか感極まって涙があふれてしまって。
そしたら、小学4年生の子に
「先生、泣いたらダメだよ、笑って笑って!」
と言われ、笑い泣きになってしまいました。。

今日、大使館に入籍届を出しました。離れているし、まだ実感はわかないけれど、こ
れからゆっくり時間をかけて、伴侶となっていきたいです。

10月27日

今日は日秘会館で、日本語教師会主催による、日本語コース受講生のための卒業証書
授与式が行われました。何故かそこで司会者を勤めることになり、少し緊張しながら
会館へ。

日本語講師になるため、あるいは能力向上のための日本語の授業が、会館では開かれ
ています。

約20人ほどの受講生が、公使やJIICAの所長から、一人一人、証書を手渡されまし
た。

その司会の準備をしている最中、母から電話が入り、

福島の祖母が急逝したとの報せ。

一瞬思考が止まりました。9月に帰国したときには元気で、結婚の報告を喜んでくれ
ていた祖母なのに。

式の間は何も考えずにいました。
「帰ってこなくていいから、ペルーで自分の勤めを果たしなさい」
そう母には言われました。
でも、受講生を見守る、おばあちゃん先生方を見ていたら、どうしても祖母の顔が最
期に見たくて止まりませんでした。

校長先生に事情を話すと、すぐに旅行会社に向かってくれました。二日後には、ウチ
ナンチュー大会へ参加のため、校長先生たちも日本へ行くことになっており、日本語
の授業は11月の運動会の練習にあてるから、私が抜けても問題ないと。
その日の夜の飛行機で日本へ発ちました。

久しぶりに車を走らせた田舎への道。秋の盛りを過ぎようとする故郷の風景。ただぼ
んやりと、こんな時にも関わらず、日本の四季は美しい、そんな想いがあるのでし
た。

88歳の祖母は、20代で祖父を戦争で亡くすと、女手一人で5人の子供を育て、運送
会社を切り盛りする、地元では有名な女丈夫でした。また、自分のような婦人達の力
になりたいと遺族会でも活動し、代表として各地を訪れたりしていました。

大きな、大きな人でした。

きれいな寝顔のような祖母の顔。
「大往生だったね、お疲れ様、もう足の痛みも何もないね、これで楽になって、好き
なところ、どこでも行けるね。」

心臓が弱っていた祖母。夜中にベッドから落ちたと聞き、きっと祖父に会
いに行きたかったのではないかと、おぼろげに考えていました。

葬儀を終え、お墓へ向かい、野の草の茂る、山の上のその場所は、整然と整備された
墓地とは違う、自然のままの風景のやさしさ。幼い頃、お墓参りのあと、フキノトウ
をとった土手もそのままです。

そこには祖父のお墓もありますが、お骨はありません。戦争で帰ってこなかったそう
です。

祖母のお骨を入れていた木箱を燃やしていると、夕焼け空にきれいな軌跡を描いて、
飛行機がかすかな音を立てて、飛んでいきました。

「ああ、おばあちゃん、フィリピンに行ったよ!おじいちゃんのとこに行ったんだ」
突然母や伯母達が、頭上を仰いで叫びました。

秋の終わりには珍しい、暖かく穏やかな日でした。

命はめぐる。 亡くなった者の息をひきとって吹く風は、やがて生まれたての赤ちゃんの最初の息吹
となるだろう。

そんな詩の一節を思いだしていました。
かけがえのない人の死は、残されたものに、ある力を与えてくれる、
それが生を許されたものの使命なのかもしれない。

いつか私も生命の糸を紡ぐのだ、と。
そう強く、思わずにはいられませんでした。


ペルー日記